□5□汀と過ごした家。汀と食事を作ったキッチン。汀と結ばれたリビング。汀と眠ったベット。この家の中の全てが汀との思い出に満ちている。なのに、汀はもういない。
波香は一人、汀との家に帰るとまっすぐに彼の部屋へいった。彼の香りを求めるかのように、きちんと整えられたベッドに顔をうずめる。
「……汀」
呟いても、心の中は落ち着かない。何故彼が急に博士の命令に従ったのか、しかも自分に内緒で―――。突然のことへの衝撃。汀がいなくなったことへの寂寥。自分を裏切ったことへの憤怒……波香の心はパンクしそうだ。
「…助けてよ、汀……」
呟いても誰も答えてくれない。答えを求めて延ばした指先は、コツンと小箱に当たる。それはこの部屋に入ったときにベットの上に放った、汀の残した小箱だ。
「………」
一体何が入っているのだろう。もしかしたら彼が残したメッセージかもしれない…淡い期待を抱き、丁寧にリボンをほどいて箱を開ける。箱の中には小さなケースが収まっていた。ゆっくりと、ケースを開く。
「…え?」
ケースの中には銀色の細身のリングが収まっていた。小さな石が埋め込まれている。
汀はどんなつもりでこの指輪を用意したのだろう。裏切りへの罪滅ぼしのつもりだろうか。
波香は負の感情が満ちるのを感じつつ、気を使いながらそれを取り出し―――どの指にはめようか一瞬迷ったが―――左手の薬指を通す。指輪はぶかぶかで、手を下に向けるとするりと床に落ちた。
「…馬鹿なんだから…私の指輪のサイズは七号なのに……」
くす、と笑みが浮かんだ。例え裏切りに対する罪滅ぼしだとしても、汀が自分のために残してくれたプレゼントは波香の心を暖かくした。
「…チェーンに通してネックレスにでもしましょう……か?」
落ちた指輪を拾い上げて眺める。その時ふと、内側に何か文字が彫られていることに気がついた。窓から差し込む光にかざし、文字を読もうとする。【Believe Me】
まさしくそれは彼からのメッセージだった。この一言が、波香の心の暗雲を吹き飛ばす。
「…私を裏切ったわけじゃない……そういうことね?」
波香は両手で指輪を覆い、胸に抱きしめた。先ほどとは違う感情で胸がいっぱいになる。嬉しさと、罪悪感―――彼を一瞬でも疑ってしまったことへの。
「…信じて、いいのね………?」
主のいない部屋で、まるで主の代わりにするようにベットにもたれかかり、波香は胸を一杯にして呟いていた。++++++++++
その施設には正式名称がない。故に人々はそこで行われている研究から、その施設を【神の国】と呼んでいるという。
汀は、「身寄りがないため充分な施設で学ぶことが困難だが、その知能は日本政府公認で将来を有望視されている少年」というふれこみでハイルボルト博士の元へと送られた。あくまでも「日本政府からの」推薦であり、何処を叩いてもディヴィン・モーデとの関わりは一切でてこないということになっているらしい。ハイルボルト博士は本国で身寄りがない、しかし優秀な青少年の教育を率先して行っている上、亡くなった奥さんが日本人ということも有り親日家だったため、その申し出を快く受けて汀を自宅へ受け入れた。
広大な敷地面積を有するハイルボルト邸には使用人を除くとハイルボルト博士とその養子だという少年レイスリック、そして博士の若き秘書のシュミットしか住んでいない。汀はそんな広い邸宅の一室を与えられ、博士の息子同然の待遇を受けていた。ハイルボルト博士が援助するほかの子供たちは、専用の施設で暮らしているという。汀は日本から特別に依頼された子供、ということで特別に扱われていた。
「ねえ、ナギサ、今日は天気がいいから本ばかり読んでいないで中庭でひなたぼっこでもしない?」
軽いノックの後、こちらの許可も待たずに室内へと滑り込んできたのは博士の養子、レイスリックだった。十四歳としては小柄で、艶やかな黒髪に黒目がちの瞳はともすればもっと年若く見られることもあるだろう。肌の色こそ透き通るように白いが、その目と髪の色から日本人といっても充分通りそうだった。彼の日本人に近い容貌を見ていると、初めて汀を見たときにハイルボルト博士が「君は何処となく私の息子に似ている気がする」といって笑みを浮かべたのを思い出す。
「……別に構わないが……レイは調べ物があるんじゃなかったか…? 昼前に済ませておかないと、シュミット氏に後で怒られるぞ」
汀はパタンと読みかけの本を閉じ、その上に軽く手を乗せたまま無邪気なレイスリックに振り向く。汀は優秀な学生を演じていた。彼の記憶にインプットされている知識がそれを助けていたし、もちろん言語に関してもそのおかげで不自由は全くない。【ハイルボルト博士を完全に信用させ、その後彼の大切なものを奪い、己の愚かさを後悔させながら、二重の意味で苦しめて殺す】それが結原博士の望みだ。ぼろを出して疑われるわけにはいかない。そう肝に銘じ、ここ三ヶ月あまりを過ごしている。
「シュミット兄さんは口うるさいからなぁ…。中庭だとメイドとかに見つかって兄さんに告げ口される恐れがあるよね」
どうしても汀と過ごしたいらしく、顎に手を当てて真剣に考え込むレイスリックに、汀は「ずいぶん気に入られたようだな」とクス、と笑みをこぼした。
(…本当に、なんと言ったらいいのか)
レイスリックは兄と慕う義父の秘書シュミットの怒りから逃れて遊ぶ術を真剣に考えているのだろう、汀の笑みに気がついた様子はない。
(……そろそろ、か。あまり時間をかけすぎて、博士が痺れを切らして波香に危害を加えないとも限らない――――――いや、博士自体が危害である可能性も、否めないか)
汀に関わる人々は、ここ数ヶ月で純朴で品行方正な日本人の青年のことを信頼するようになっていた。レイスリックなど近い年頃の友人がよほど嬉しかったのか、汀が来たばかりの頃は彼の後をついて離れようとしなかった。ナギサは遊びに来ているのではない、勉強しに来ているのだよ、とハイルボルト博士やシュミットにたしなめられてようやく汀の元への訪問は日に数度へと減ったのだった。
レイスリックと過ごした時間―――それが彼に対して情を抱くに充分なものであったことは確かだ。しかし汀には、その情を捨ててまでも守り通したいものがある。
(波香は―――俺を信じてくれているだろうか)
それは淡い期待で。何の説明もせずにただ、指輪の内側に刻んだ一言。彼女がそれに気がついていてくれればいいのだが。
と思考をめぐらせ、自嘲気味に首を振る。もしこの仕事が成功したとしても、博士は自分を再び波香に会わせたりはしないだろう。もしかしたら自分は記憶を操作されるかもしれない。日本に帰国することさえ許されないかもしれない。自分が波香に再び会える可能性は、新たな命が誕生する確率よりも低いのだ。もう二度と会えないだろう人物の心に自分が裏切り者として刻印されているからとはいえ、憂えることはないはずだ。もう二度と会えないのだから――――――。
そこまで考えて、汀は泣きそうになっている自分に気がついた。軽く首を振り、気分を入れ替えようとする。今ここで泣いても何の意味もない。
「…レイ、南館の図書室ならどうだ? あそこならば日当たりもいいし…万が一シュミット氏に見つかったとしても調べ物をしていた、と言い訳が立つだろう…」
苦悩する少年に助け舟を出す。レイスリックは「ナギサ、名案だね!」と満面の笑みを浮かべた。
「…俺は少し机の上を片付けてからいくから、先に行っててくれないか…?」
「うん、わかった、早くきてね!」
「…ああ、すぐに行く」
レイスリックはにっこりと微笑み、軽い足どりで部屋を出て行った。こうも自分を頭から丸ごと信じてくれている彼を裏切るのは気が引けるが、汀にはそうする道しか残されていない。
レイスリックが出て行き、部屋の扉が完全に閉まったのを確認すると、汀は机の一番上の引き出しのスロットにカードを差し込んだ。鍵が外れ、引出しが開く。その中には小さなケースが入っていた。優しい手つきでケースを開き、中の物体を取り出す。波香とおそろいのそれは、汀の左手の薬指にぴったりのサイズだ。
汀はゆっくりとリングに指を通し、見つめる。それだけが彼に残された彼女との唯一の繋がりであり、神に残された唯一の至宝のように思えて。
軽くため息をつき、引出しの奥から小型のレーザーガンを取り出す。サイズこそ掌に収まる大きさだが威力は通常のレーザーガンの数十倍というものだ。発砲時の音もほぼなしという清音設計の上に、軽い。それをズボンのポケットにしまうと、汀は薬指のリングに口付けをした。
「……波香」
愛しい者の名を呼び、聖なる口付けを―――それはまるで儀式のようで―――。++++++++++
ここのところずっと体調があまりよくなかった。「信じろ」という言葉で彼に対する憎しみは融けていた。しかし彼がいなくなったことは思ったよりも自分の心を噛み砕き、寂寥は心と身体を侵食していった。眠りにつこうとするとどうしても彼のことが頭に浮かび、信じてはいるものの自分を一人にしたことを責めたくなる。あいたい、会いたい、逢いたい……そう願っても届かないというのに。寂しさが身体中に詰まっていて、食事など喉に通らなかった。睡眠不足と栄養不足、そして汀のことを恋しく思いすぎているのがここのところの眩暈や吐き気、だるさの原因だろうと思っていた。
ふと、カレンダーに目をやる。汀がいなくなってからもうすぐ三ヶ月。季節は秋へと移行していた。
(…もう、三ヶ月………そういえば…)
カレンダーの日付と、自分の記憶を照らし合わせる。順調だった生理がここ数ヶ月来ていないようなきがするが、「まさかね」と口の中でその考えを打ち消す。きっと食事をあまりとっておらず、睡眠不足なこの生活のせいで遅れているだけだろう。
と、その時立ち上げたままになっていた端末がメールを受信を奏でた。メールボックスを見ると見慣れない差出人からのメールが届いていた。
「シュ…シュミット…?」
聞き覚えのない差出人に戸惑いつつもメールを開く。ウィルスメールだとしたらセキュリティシステムが削除するため、波香の元へ届くはずはないのでその点は心配していない。
「……なに、これは…」
そこにかかれていた丁寧な日本語の羅列は、彼女にとっては信じがたい内容だった。そもそも宛名が【bP、SERAPHINA】の時点で間違いメールなのかと思ったほどだ。しかしそのメールは紛れもなく波香宛だった。汀の感情教育係―――そう呼ばれるのは波香の本意ではなかったが―――その言葉が指すのは波香以外に他ならない。
「…これ、本当なの…? 私、が―――bP?」
身体中に走る動揺と衝撃。この情報の真偽だとか差出人の身元だとかはどうでもよかった。自分がbPであるということ、それを考えれば散らばったジグソーパズルのピースが全て指定の場所にはまるように思えた。
誠実の汀の言葉―――「人の腹から生まれぬ【俺たち】」というのは、波香自信も含まれていたのだ。汀は波香とbPの関係を知っていたけれども、波香には黙っていたのだ。
もう一度、ゆっくりと読み返して状況を整理しよう。震える手を何とか制御しようとしたそのとき玄関の扉が荒々しく開かれ、階段を上ってくる足音がした。波香は急いで端末の電源を落とし、不法侵入者を迎えるべく身構える。正直、動揺は収まっていない。しかし汀がいない今この家のセキュリティにに引っかからずに家内に入ることのできる人物は限られていた。
「ここにいたのか」
果たしてその人物―――彼女が憎んでも憎みきれない父、結原怜二がダークブルーのスーツをまとって現れた。
「…何をしに来たのですか、勝手に人の家に入って」
「私に対してその言い草は、まあいつものこととはいえ悲しくなるね。いいかげんいなくなったモノのことは忘れて、私と暮らそう」
「…お断りします」
汀がいなくなってから何度も何度も博士は波香に、自分と暮らそうと申し出ていた。だが彼女がそれを承諾するはずはなく、波香は汀と過ごした家で一人で暮らしていた。
「折角もうすぐ念願かなって本当に邪魔者がいなくなるというのに……何意地を張っているのです、響呼」
「…?」
波香は自分を祖母の名で呼ぶ博士の意図がわからず、首をかしげた。一瞬の後自分がbPだということは祖母のクローンなのだということを思い出し、眉をしかめる。博士の瞳は【響呼】という名を口にする時に異様な光を称えたように見えた。
「…ほら、やっと、あの男のくびきから開放して差し上げますよ。貴女を独占するあの忌まわしい男から…。だから、安心して私の胸に飛び込んできてください」
博士は入り口に立ち尽くしたままやわらかい微笑をうかべ、波香に両手を広げてみせる。彼の顔に浮かんでいるのは笑顔のはずなのだが、波香は背筋に寒気が走って仕方がない。
(…なんなの、これではまるで……)
いくら一人息子だったとはいえ、博士の母親への執着は異様に思えた。
(…まるで、実の母親を女として愛していたよう……)
「もう平気なんだよ。私と貴女を引き離すあの男は、最も会いたくないだろう人物の手で間もなくいなくなる…私があなたを愛することを咎める人間はいなくなる。さあ、何十年ぶりだろうね、貴女と私が触れ合うのは…」
(最も会いたくないだろう人物って汀のこと? なんで…いえ、それよりも…やっぱりこの男は狂っている!)
今の博士は波香が母親にしか見えないのかもしれない。自分が【母】と呼ばれることに波香が疑問をもっていないことに気がついていない。彼女を受け止めようとするかのように両手を広げたまま、一歩一歩近づいてくる。
「あの時貴女は私を拒否した。自分の命も、私が貴女と作り出した命も、自分の死後の身体さえも私の自由にはさせないと」
博士の瞳は狂気のそれに染まっている。波香は部屋の奥へと逃げるが、すぐにベットに行き当たり、逃げ場はなくなる。
「だが、私はこうして貴女を蘇らせた。そして貴女だけでなく、貴女と共同制作した命をも蘇らせたのですよ」
「!」
胃の奥から何かが逆流してくる。じらすようにゆっくりと一歩一歩近づきながら告げられる言葉に、波香は吐き気を抑えられない。
(この男は―――実の母親に自分の子供を孕ませたのね…何とかこの男の思い通りにさせまいというおばあ様の抵抗空しく、二つの命をも複製した…)
そして今、母親を複製した自分をも手に入れようとしている。波香は響呼のことを【おばあ様】と呼ぶのをやめなかった。自分が響呼のクローンである以上彼女をそう呼ぶのはおかしいのだが、そう呼ぶのをやめたら、自分が【波香】であることも放棄することになってしまう、そう思えた。
(そして多分、汀が…汀が――――――)
博士の歩みは止まらない。波香にきちんと考える暇を与えず、恍惚とした表情ですでに波香に手が届く位置まで近寄っている。その瞳は妄執じみていて、恐ろしくて震えが止まらない。すでにベットの上に登りきっており逃げ場のない波香は目の前に迫る危機のために思考を中断しなくてはならなかった。
ギシリ、とベットを軋ませて博士が片足を乗せた。博士の足場が不安定になったところを狙い、波香はきつく目を閉じて思い切り博士を突き飛ばす!
「…………」
だが想像していた衝撃は全くなかった。手首に感じる嫌な感触。波香は自分の思惑通りに事が運ばなかったことを悟り、目を開けることができなかった。
波香の手首を掴む手はそのままに、博士は彼女を―――長い間待ち望んだ、誰よりも愛しい女性を押し倒す。その髪も目も鼻も口も全てがかつて彼が愛し愛し愛してやまなかったもの。時を経て再び触れることが叶ったもの。もう、誰にも渡さないもの―――。身体中を興奮が支配する。初めて彼女にそうした時のように、今また彼女は自分を拒絶しようとして暴れ始める。だがいくら蹴られても、いくら罵られても何にも感じなかった。もうすぐ念願叶ってあの男を殺せる、あの男がこの世からいなくなるのだと思うと、愉快で愉快で仕方がない。
(完全に私から取り返したと思った彼女と、実の息子である私との子供に殺されると知った時、あの男はどんな表情をするかな)
くっくっくっ、と腹の底から笑いがこみ上げる。抵抗して泣き叫ぶ愛しい女の声も、今の彼には祝福のメロディにしか聞こえない。女のブラウスのボタンを引きちぎり、その白い肌を露わにする。昔の彼女と変らないその白い肌は、性欲を掻き立てる。抵抗に疲れたのかはたまた諦めたのか、動かなくなった女の肢体を、彼はかつてと同じようにくまなく舐めまわし始めた。
首にかけていたチェーンが引きちぎられたことで、空中に踊り出た銀色の小さな円の描く放物線上の軌跡を、女はただ呆然と眺めていた。++++++++++
「な…ナギサ、なんでぼくにそんなものを向けるの…」
暖かい陽の差し込む図書室。後ずさり後ずさり、ついには窓際の棚へと到達してしまった少年。その少年にレーザーガンを向けたまま一歩一歩近づく青年。少年はカーテンに包まるようにしながら震えている。
「…………」
手を伸ばせば届くその位置まで近づいて、無言のまま少年の頬へと空いている手を伸ばす。その刹那、パシッ…と渇いた音が二人のほかに誰もいないその静寂の間に響き渡った。
「…君は何故そんなに極端に避けるんだ?」
茶色の髪、金色のかかった瞳を持つ青年は、目の前で無力な子猫のように震えている黒髪の少年に語りかける。そのミルク色の頬に触れようと伸ばした手を払われたのだが、それにショックを受けた様子も無い。
「い…いったい何をだい…?」
黒髪の小柄な少年は、その気の弱さを表すかのように瞳を潤ませながら上目遣いに茶色の髪の青年を見つめる―――触れられそうになった頬を軽く抑えながら。
「人に触れられること―――一時的接触、人と心を通わせること、自分の心を覗かれること―――」
「そ、そんなっ…僕は、心通わせているよ、誰とでも、君とだって…」
少年―――レイスリックは必死に青年―――汀の言葉に反論する。
「…確かに…君は自分をすべてさらけ出して他人と接触しているよう……に見えた」
そう、汀はレストリックのことを一瞬、波香に似ていると思った。自分が傷つくのを省みず、自らの心を正直に表現する彼女に。
「……君はそういうふりをしているだけだ。本当に他人に心を許したりなんかしない」
汀の断定的な物言いに、レイスリックは怯えながらも向きになり反論する。
「違うよっ! 僕は本当に君のことを信用しているし、君に心を開いて、君を大切な友達だと……」
「じゃあ、その大切な友達のために人質になってくれるね」
「!?」
突然の言葉にレイスリックが驚いて硬直した隙を汀は逃さなかった。いつのまにかポケットに入れた左手に隠し持っていたナイフで、レイスリックの包まるカーテンの上部を切り裂く。そしてカーテンが支えを失ったことでバランスを崩したレイスリックの背後に回り、ナイフを持った腕を首に回して拘束した後レーザーガンをこめかみに突きつける。原始的な拘束のように思えるが、今すぐに彼を殺す気はない以上人質として知らしめるにはその立ち位置が丁度いいように思えた。
「ナギサ、やっぱり君はシュミット兄さんの言う通り【ディヴィン・モーデ】の刺客だったのかい?」
黒髪の少年は大きな瞳を潤ませる。
「嫌だよ! 折角仲良くなれて…信頼できる相手だと思ったのに……」
黒髪の少年は、おそらく自分を殺そうとしているであろう青年に精一杯嘆きかけた。
「…ふむ、やはりディヴィン・モーデのことはばれていたんだな…」
汀はレイスリックの叫びをどこか遠いところで聞いているような錯覚を覚えた。
「…信頼? 俺が欲しいのは君の信頼なんかじゃない」
「どうしてだよ! あんなに仲良くしてくれたのに…君は僕を裏切るの?」
棚に飾られた民族衣装を纏った人形は、無機質な瞳を彼らに向けている。
「僕は…こんなにも君のこと、信じていたのに!」
レイスリックは自分を今にも殺せる位置にいる青年―――汀に問う。それは問いというよりも半ば叫びと化しているが。
「…俺と君は元から相容れないもの」
汀はまっすぐに黒髪の少年を見詰める。
「俺は、君たちを殺すために造られたのだから。結原怜二のクローン、レイスリック=レイジ=ハイルボルトくん」
汀の言葉の最後のほうは、この部屋の扉を外から叩く音と呼びかける声にかき消され、レイスリック自身には届かなかったかもしれない。だが、別にそれでもいい、と汀は思っていた。
「…………」
ノックの音に汀は沈黙を返す。返事を待たずに入り口のロックをはずす音が聞こえた。汀は入り口から見て真正面の窓際の棚を背にし、レイスリックを前に抱え込む形で拘束していた。拘束されている本人は天の助けとばかりにノックの主が入室してくるのを待っていることだろう。
果たして、扉が開く音と共に入室してきたのは茶色い髪の長髪の青年。鋭い瞳は図書室の本来の用途に相応しくない事態が起こっているにも関わらず、いつもと変らない。
「シュミット兄さんっ!」
レイスリックは普段は、細かいことにうるさいだのさんざん文句を言っている兄的存在の人物の登場に、目を輝かせる。きっとすぐに自分を助け出してくれるはずだ。
「ナギサ=アオイズミ。チェックメイトだ」
「…何を言っている。…人質を取って有利なのは俺だ。それとも…今ここでレイを殺しても構わないと?」
汀の言葉に彼の腕の中のレイスリックはぶるっと震えた。ここでシュミットが「Ja,」と言ったら、レーザーガンは自分の頭を貫くだろう。汀を動揺させるための方便だとしたら、失敗だ。彼がレイスリックを拘束する腕はちっとも動揺した風には見えない。
「君が自らの意思に反して、大切な人との約束を破ってまで守ろうとしたモノは、もうないんだ」
ピクリ、と汀の方が震える。汀には、シュミットが言っていることが何を指しているのかはすぐにわかった。しかし真実かどうかは定かではない。レイスリックがディヴィン・モーデの事を知っていたことから情報は漏れていたと考えるべきだが、それが何処まで知られているのかは判別がつかない。下手に回答することができないでいた。
「自らを人間だと信じて疑わない人形は、もうないってことだ」
「まさかっ! 波香を、波香に何がっ!?」
シュミットの感情のこもらないその言葉は汀の心に深々と突き刺さった。汀はレイスリックを拘束していることも忘れ、激しい動揺に襲われる。シュミットはその隙を見逃して、かけたカマが当たったことを喜んだりはしなかった。一気に汀にかけより、レーザーガンを蹴り飛ばすと、緩んだ拘束からレイスリックが逃げ出したために拘束するものがなくなった汀の左手をナイフごと掴む。そのまま自分の方に強く引っ張り、バランスを崩した汀に体重をかけ、うつ伏せに押し倒して馬乗りになった。
「……っ!」
戦闘訓練を受けた通常の汀なら見せるはずのない隙。だが波香に関することには理性より感情が強く働いた。動揺を抑えきれなかったあまりに今自分が窮地に立たされているということを、汀は冷静に感じていた。
「さっきの台詞ははったりではない。先日、ナミカ=ユイハラに彼女の出生の全てを伝えるメールを送信しました。その開封も確認済みです」
「何でそんなことを!」
波香を傷つけてまで、自分の意志に反したことをしてまで、彼女と離れてまで自分がしたことが、全て無駄になったしまった。汀は憤りを篭めてシュミットを睨みつけようとする。しかし強い力でうつ伏せに押さえつけられていて、それも叶わない。
「君が捕らわれている楔をはずすためだ、と我が主人は仰っていた。だがそれは君を救うためではなく、自らの命を守るためですけどね」
「!」
ハイルボルト博士は全てを知っていたのか。汀が結原博士の命を受けてハイルボルト博士を殺しに来たのだということを。結原博士のクローン研究の結果をも。
「さあ、主人がお待ちです。立ちなさい」
立ち上がったシュミットに引き立てられ、汀は部屋の出口へ向かわされる。一部始終を震えてみていたレイスリックが何かいいたげに手を伸ばしだか、シュミットの冷たい視線に射すくめられて萎縮するのが見えた。
(…波香を、そしてレイを裏切ったことの報いか…)
シュミットは汀の右腕を引くだけで、特に拘束はしなかった。ともすれば逃げられそうに見えたが今更逃げ出しても事態は好転するはずもなく、ここを出ては異国の地で汀の居場所はなかった。
ふ、と汀の唇に笑みが浮かんだ。任務失敗に衝撃は受けてはいない。むしろ波香との約束を破らずに―――人を殺さずに済むことが嬉しくさえ思えた。彼女との約束は神聖なもので。決して、破るわけにはいかないものだから。
汀は元々ハイルボルト博士を殺害するつもりなどなかった。ハイルボルト博士に身の危険を自覚させ、自分は暗殺に失敗した間抜けな刺客として殺される。そうすれば【失敗した】のであり【任務を放棄した】ことにはならず、博士の命に背くことにはならない。だが汀が実際に実行に移すまでもなく、ハイルボルト博士側は全てを察知していたらしい。
(おまけに波香に真実を伝えるなど―――余計なことをしてくれたものだ)
今の汀のただ一つの気がかりは、自分の命よりも事実を知ってしまった波香の心だった。「ナギサ=アオイズミ。君をはじめてみた時、とうとうその時が来たか、と思ったよ」
大きな一人掛けのソファに体をうずめた初老の男性、ハイルボルト博士は余裕綽々といった様子で目の前に座る汀を見つめていた。今の汀は何処も拘束されていない。ただ椅子の背後にきっちりとシュミットが立ち、汀が不審な動きをしたらすぐに対応できるように身構えている。
「……ご自分が、息子さん―――結原博士に命を狙われることをご存知だったのですね」
「ああ、あの子は昔から私を憎んでいた。その憎み方は尋常じゃなく、幼い頃から【男】の瞳をしていたよ。大切な母親―――いや、あの子にとっては【女性】だったのだろう、それを奪い取る私に憎んでも憎みきれないほどの憎悪を抱えて」
「……エディプス…コンプレックス…ですか……」
ぼそりと呟いた汀の言葉に、ハイルボルト博士は頷いて顎鬚を撫でた。
「通常ならば幼少期で収まるらしいのだがね…あの子の場合、収まるどころか増大していく一方だった。響呼を愛す反動で私を憎む。響呼があの子の感情を恐ろしく思い、あの子を恐れ、私に頼りきりになることで沙羅にあの子の感情は暴走し―――ついにはあの子は響呼を陵辱してしまった」
「…………」
汀はハイルボルト博士の口上に黙って耳を傾けていた。博士は今まで誰にも話すことのできなかった過去を、歌うように紡いでいる。
「響呼は精神を病み、私は別荘で療養させることにした。しかしあろうことか彼女はあの子との子供を身ごもってしまった。忙しさにかまけて彼女が病んだ事実から目をそらそうとしていた私がそれに気がついたのは、もう堕胎も不可能な時期だったよ」
もしかしてハイルボルト博士は口にすることで、息子を止められなかった、妻を救えなかった自らの罪を償おうとしているのだろうか―――。
「暫くして別荘が全焼した。急いで別荘を飛び出すあの子の姿が確認されたが、不思議と、私はあの子が火をつけたのだとは思わなかった。響呼が、やっとあの子から逃れることができたのだろう、と思ったのだよ。これで全て、終わったと思った」
ハイルボルト博士は事実を聞く汀があまり驚いていないのを気にしていないようだった。と、その原因に思い当たる。汀は結原誠司郎氏からあらかた話を聞いていた。ハイルボルト博士はそれを知っているのだろう。ハイルボルト博士と誠司郎氏が裏で情報をやり取りしていたとすれば、ハイルボルト博士がすでに汀のことを知っていたのも説明がつく。
「鎹となっていた響呼がいなくなったのだ、あの子が私の元から離れたがるのも当然だと思えた。だから私は快く、あの子を日本へと送り出した。だがあの子は私も予想しなかったことをしてくれたね…私の研究を盗んだだけでなく、響呼のクローンと…そして君を作るなんて」
汀の頭の中に結原博士の言葉が蘇る。彼は汀がハイルボルト博士を殺すことにこだわっていた。そして作りたかったものは二つあったといっていた―――【愛と罪の結晶】を。
「やはり人は育つ環境で変るものだな。あの子と同じなのにレイスリックは素直で心優しいいい子に育った。私の子は―――レイスリックだけだ」
ハイルボルト博士は結原博士を愛していたのだろう、汀にはそう思えてならなかった。だが結原博士はハイルボルト博士を拒絶し、命までも狙っている。ハイルボルト博士は息子のクローンを作り、かつて叶わなかった父子の愛を交わしているのだろう。
「あの子は―――事もあろうにお前に私を殺させようとした。私が最も愛した者たちの、愛の結晶という残酷なお前に」
(――――――ああ、やはり)
汀は自分の予想が的中したことを悟り、きつく目を閉じた。波香の役目を【母親】と呼ぶのは決して比喩ではなかったのだ。ハイルボルト博士が汀を見て「息子に似ている気がする」といったのも当然だ。
汀は目を閉じたまま、以前鷹梨に問うても答えの得られなかった問いを口にする。
「……俺のオリジナルは………」
「通称Missing Child……響呼とあの子の忌むべき子供だ。何処にもその存在は残されていないが」
そのハイルボルト博士の声を最後に、汀の意識は薄れていった。背後からこめかみに当てられた冷たい無機質のモノの感触だけは、はっきりしている。(……波香は―――俺を恨むだろうか。……果たせなかった断罪と、白いワンピースの約束…)
瞼の裏に、あの時買ったワンピース姿の波香が浮かんだと思うと、汀の意識はそのまま闇へと沈んでいった。++++++++++
九月末とはいえ、まだ暑い日だった。さすがにノースリーブでは肌寒いだろうと思い、薄手のカーディガンを羽織る。そのワンピースを着るときに被ろうと思っていたつばの広い帽子を被り、C棟のエレベーターに乗った。
屋上の金網のうち一つは接続が甘くてはずれそうだから気をつけてくださいね、もうすぐ業者が来て修理すると思いますが、そう屋上への階段下ですれ違った研究員に声を掛けられたが、たいして気にしなかった。
ただ、あの人の旅立ったあの場所に行きたかっただけだから。
あの人に、伝えたかっただけだから。
造られた命である私たちも、【人間】と同じように命を宿すことができるのだということを。
屋上には、彼が旅立った日の痕跡はもう何も残されてはいなかった。ただ、広い空間だけが広がっている。
「…汀」
呼んでも答えが帰ってくるわけはない、そう思ってはいてもどこかで彼が聞いててるような気がして、ここで待っていれば彼が戻ってくるのではないかという気がして。
「……汀…一人では無理…私一人では神の大罪を暴くことは―――」
波香は胸元に下げられたリングをきゅっと握り、彼の飛び去った空を見上げた。
「汀、ほら、このワンピース…見せたくて」
「まだアレに未練を残しているのか」
「!?」
誰も来ないだろうと思っていた場所で不意に声を掛けられ、波香は飛び上がりそうになった。それが彼女の一番聞きたくない声であったから、特に。
「私があんなにも愛してやったというのに、浮気者め」
「……………」
波香はただ、歩み寄ってくる父親―――いや、息子というべきか?―――結原博士を睨みつけた。先日は予想もしなかった事実を知ったことと陵辱されたことで生きる気力を失っていた波香だったが、自らの胎内に宿る命を実感したことで、汀が帰ってくるまで生きなければならないと思うようになっていた。
【Believe Me】
彼女はその一言だけに縋っていた。汀が、彼女を裏切るはずはない。
(この世で二人きりの私たち―――)
そう、波香と汀は同じモノで。他の人間とは違うモノで。波香には―――汀しかいなくて。
「あっ……」
悪戯な風が波香の帽子を乗せて飛んでいく。慌ててそれを目で追うと、運良く金網の上部の金具に引っかかってくれた。
「仕方ないな、取ってやろう」
波香が駆け寄る前に、博士が動いた。白衣のポケットに両手を入れたまま、金網に歩み寄る。
頼んでもいないのに、そう思いつつ波香はその後ろ姿を見つめていた。あの日―――波香を無理矢理抱いた日から、博士は信じられないくらい彼女に優しく接するようになっていた。「もうすぐ、もうすぐ邪魔者が消える」それが彼の口癖である。波香を、いや自分の母親を完全に手に入れたという余裕から浮かんでくる優しさだろうか。波香はその優しさが恐ろしくて気持ち悪くて仕方がなかった。
(早くこの人の手の内から逃れたい―――)
それは永遠に叶わないことなのかもしれない。だが、願わずにはいられない。いつか戻ってきた汀と共に、自分は幸せに暮らすのだ。
自分たちのオリジナルを辿ると、母と子の関係に当たる―――そんなことどうでもいい。
今の波香は【波香】であり響呼ではなく、汀は【汀】であり、博士と響呼の子ではないのだから。
(でも―――)
今時分の胎内に汀の子供がいると知ったら、博士はどんな反応をするのだろう。禁断の愛に手を染めた光源氏同様因果応報に苦しむ?
(―――それとも、私を殺す?)
クス、と復讐じみた考えに波香の口元が緩んだその時、フェンスに引っかかった帽子に手を伸ばして背伸びしている博士が言った。キシ…と体を支えるためにつかまったフェンスが軋む音を立てていたのには気がついていないのか。
「アレだけは忘れなさい。アレは私たちの神聖なる愛を生々しくする証拠。私たちの愛を否定するモノ。ただの復讐の道具に過ぎない。用途がなくなれば、捨てるだけの道具だ」―――――――――っ!
博士は気がついていたのだろうか。その言葉が汀だけではなく波香の存在をも否定しているということを。
ガシャン!
そんな音と共にフェンスの一枚が外れ、のしかかった博士の重みで屋上の外へと傾いでいく。
次の瞬間、フェンスと博士は波香の視界から消えていた。少しの後、下から衝撃音が聞こえた。
急に走ったことで激しく跳ね回る心臓に驚きながら、波香は前に突き出した腕をそのままで、先程まで博士が建っていた場所を眺めていた。帽子が、ゆっくりと風に乗りつつ屋上内に着地する。――――――気がついたら、突き飛ばしていた。
そこがはずれそうなフェンスだという確証があったわけではない。博士が触った時に少し軋む音を聞いただけだ。けれども、そうであったらいい、とも思ったのも確かだ。明確に、突き落とそういう意識があったわけでもない。ただ、ただ、自分と汀の存在が否定されたようで―――気がつくと駆け寄って思い切り突き飛ばしていた。
下では、すでに大勢の人が駆けつけているのだろう。ざわざわとざわめきが聞こえる。七階建てのビルの屋上から落下して、無事なはずはない。まもなくここにも人が来て、博士の落下の原因を調べるだろう。
「はは……あははははははっ……」
波香は駆けつけた職員に、突然のことに呆然とした様子でありのままを話せばいいのだ。自分の帽子がフェンスに引っかかり、それを取ろうとしてフェンスに体重を掛けたら、フェンスがはずれたのだと。そこのフェンスが元々はずれそうだったということは他の職員が証明してくれるはずだ。波香が突き落としたなどと誰も思わないだろう。
「…汀、これで誰も私たちを引き裂く人はいなくなったの」
床に落ちた帽子をかがんで拾い、かぶりなおした波香は嬉しそうに呟く。
「私も貴方も、解放されるの…この子と一緒に【人間】として暮らせるのよ」
白いワンピースの腹部を軽く撫でる。
もう、博士の罪を暴く必要はなくなった。死んでしまっては苦しみもしないし、罪を償えもしないのだから。
博士が波香を陵辱したことは紛れもなく罪だ。しかしそれを公開しては、復讐のために波香が博士を突き落としたと疑われても仕方がない。汀が帰ってくる場所を残しておくためにも、波香は疑われるわけにはいかなかった。博士に汚された場所は、汀が帰ってきたら清めてもらえばよい。
「だから……早く帰ってきてね………」
蒼穹を、見上げる。この空は汀の元まで繋がっているはずだから。
願いを、篭めて。
「…早く、帰ってきてね」
銀色の輪を握り締め、呟く。
汀と、生まれてくる子供と波香自身の居場所を守るため、これからの波香にはすることがたくさんある。
いつか、汀が戻ってくる日のために―――戻ってくると信じているから。信じることが、二人を繋ぐ紅い糸。
母親の胎内で羊水の波唄を聞くことなく誕生さえ翻弄された二人は、互いだけが、互いの存在意義で。
生き続けるためには―――愛が必要で――――――。
了
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