空を翔けゆく覇王に

執筆2002
完結2005.8



 

 雨よ降れ降れ…雨よ降れ。
 豊穣の水を連れて来い。
 ここはトラキア乾いた大地。
 情けの涙を零したまえ。


 村は今までになく活気に満ち溢れていた。
 やせこけた大地からのすずめの涙ばかりの収穫が始まる。
 やれ収穫じゃ、収穫じゃ。
 新しい王様に捧げる穀物の収穫じゃ。
「メルヴィーナ、献布は織りあがったかい?」
 女性の問いに、背後から声をかけられた少女は浮かない顔で振り返る。その手には、手織りの布が握られていた。
「…はい…お母様…」
「じゃあ、村長さんから順に回していくとしようか」
 少女メルヴィーナの母は彼女の手から布を受け取る。そして依然浮かない顔をしている彼女を見てため息をついた。
「…もうお諦め。お前が昔からトラバント様を好いているのは解っているがのぉ。あの方もとうとうなるべきして王になられる。もう以前の様に軽々とお前たちと話をし、遊べる身分ではないのだよ。身分違いなのははじめからわかっていたろう…?」
 母親の言葉にメルヴィーナはうつむいたまま答えようともしない。まるで沈黙でその悲しみを表すかのように…。
「トラバント様ももう19歳におなりだ。今まではご本人がお断りになっていたようじゃが王となられるからには王妃様を娶られるだろう。お前も17。夢物語に思いを馳せていないで、嫁に行くことを考えるのじゃな」
 母の言葉は彼女にとって辛い宣告。
 彼女の瞳から泪がおち、音も立てずに手織りのスカートに吸い込まれていった。
「ふう…かわいそうだとは思うけどねぇ…」
 そうつぶやいた母親の言葉が耳に入ったのか…メルヴィーナの泪は止まることはなかった。


「私の夢は、このトラキアを民の苦しむことのない大地にすることだ」
「苦しまない…?」
「よくみてごらん」
 メルヴィーナが首をかしげると、隣に立つ王子は自らの立っている大地から見下ろせる自国内を指差した。
「このトラキアは南に位置しているものの山が多く、土地はやせ細っている。人の住む土地を確保するためには、畑を削らなくてはならない。山は岩が多く含まれていて、畑にするのも居住するのにも不向きだ。われわれは今、わずかながらに取れる作物と工芸品、民芸品、そして狩りで生計を立てている。男の多くは他国へ出稼ぎに行っている。家族がともに同じ場所で暮らせない国で、人々は苦しんでいる」
「メルのお父様も…竜騎士として出稼ぎに行っております」
 少女の相槌に、王子は大きくうなづいてみせる。
「だから私は、トラキアの民を楽にしてやりたい。出稼ぎに行かずとも国内の家族の元で仕事が出来る。傭兵など他国の下請けという惨めな仕事にありつかなくてもすむ。そんな国にしたい」
 王子はぎゅっと自らの拳をにぎった。
「出来ますとも、きっとトラバントさまなら…」
 少女の笑顔の励ましに、王子は薄い笑顔をむける。
「そのためには誰かが悪にならなければならない。私はいくら苦労してもいい。私はいくら悪く言われてもいい。民たちが幸せなら、私は苦労も悪名も厭わない」
「…ダインの神の加護がありますとも。神様は、お見捨てにはなりませんわ…」
「メルはいい子だな…」
 王子の微笑みは、少女の言葉で泣きそうな微笑に変わる。そして、瞳は少女の瞳を見つめていた。
「いつまでも、私のそばにいてくれ…な」

 そうして少女が返事を告げる前に押し付けられた唇。
 その暖かさすら覚えているというのに、あれから何年経ったのだろう。
 二人の子供は成長し、お互いの立場からか気軽に時間を持つこともほとんどなくなっていた。
 あのときの言葉は何だったのだろうか。
 ただの、気まぐれだったのだろうか。

 メルヴィーナはトラバントに縁談の話が来ているという噂を聞くと、胸が締め付けられる思いがした。
 いっそのこと、死んでしまったほうが楽だと感じたことも幾度となくある。
 しかしトラバントは縁談をまったく受けようとはしなかった。
 そのたびに彼女は、あのときの約束はまだ有効なのかもしれない、という淡い期待を抱いていた。

 だが、そのトラバントは3日後に戴冠式を行い、このトラキアの王となる。
 今までに増して、ますます手の届かない存在となる。
 戴冠式。
 その儀式にメルヴィーナは誓いの葡萄酒の献上と毒見の役を仰せつかっていた。
 それと村からは、祝いの献布の作成を。
 
 祝いの献布とはこの地方の風習で、何かお祝い事があると手織りの布に祝いの言葉を書いてプレゼントをする、というものであった。
 
 今、自室のメルヴィーナの目の前には、村人たちのお祝いの言葉の書かれた献布があった。
 順番で、彼女の家に回ってきたのである。
「……」
 数時間、彼女はその布を見つめていた。
 しかし、書くべき言葉が見つからない。
 「おめでとうございます」と書けば済む事なのだが、どうしても自分の気持ちに嘘はつけない。




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